《円谷英二生誕100年》

 特撮映画監督といえば、嵐田にとってはルーカスでもスピルバーグでもなく、夢を投げかけてくれたのはましてやウォルト・ディズニーなどではありませんでした。
 2001年7月7日は、円谷英二氏の生誕100年めにあたるのだそうです。福島県須賀川市ではそれを記念し、これからの須賀川の街づくりと円谷氏の故郷という接点をアピールするため、「生誕100年・円谷英二展」を開催しました。
 何が夢だったのか、とりとめもない話ですが、嵐田雷蔵は7歳のときに、ウルトラセブンに肩車をしてもらったことがあるのです。その嵐田の娘達が、ほぼ当時の嵐田と同じ年齢に育ってきた2001年の夏、彼女たちが、あの日のままのウルトラセブンと握手をしている光景。これは確かに夢を見ているようでした。 それは当時も着ぐるみに過ぎないし、今も素材を刷新した新しい着ぐるみに過ぎないのですが、そのことを言ってはいけないひとときですね。約30年足らずの時間は、セブンにはどうということのない経過ですが、なるほど永遠のヒーローかもしれないと、夢と現実のはざまに立っているような気分でした。
 ハワイ・マレー沖海戦、ゴジラ、ウルトラマンを世に送り出した円谷氏の生い立ちと、円谷特撮技術の黎明期からウルトラセブン、世に送り出せなかったニッポン・ヒコーキ野郎に至るまでの小道具や大道具、シナリオ原稿などを紹介した展示会場は、言葉は悪いけれども「特撮って、だましのテクニックだなあ」と思わせるようなチープなものから丹念に造り込まれたものまで、沢山の発見がありました(撮影禁止)。まさに夢を追い続けた生涯のほんの一部が、そこに息づいているという雰囲気です。
 円谷氏が生まれ育った須賀川には、かつて「ゴジラの卵」が、阿武隈川の岸辺に横たわっていました。
 街おこしの到達点に「円谷英二記念館」を掲げる青年会議所の企画だったそうですが、放火されたりいたずらを受け、撤去されてしまいました。
 しかし「須賀川には今でも怪獣がいる」というので、街をたずねてみると、目抜き通りである「松明通り」の歩道に、50体もの怪獣や宇宙人(そのほかにウルトラマン、ウルトラセブン、ジェットビートル、ウルトラホーク、ポインターが加わる)が佇んでおりました。松明通りにキャブシステム工事を施した際に設置された、地中の電線類の点検ボックスやトランスボックスに、初期のウルトラに用いられていたオープニングのシルエットと同じタッチで、彼らは描かれていました。独特のデフォルメが「そいつは誰か」をよく表現していて、四歳の次女にさえ「バルタン」「ダダ」「ゴジラ」と一目でわかる(なぜ判るのかは、英才教育の賜)ところがすばらしい。

「松明通りからそれた細い路地に、円谷氏生家跡のモニュメントが・・・」
 目抜き通りは近代化していますが、路地裏に入ると古い土蔵や寺社と古木が残り、円谷氏の時代との接点も垣間見ることができます。しかし往来するクルマはどうやら、うつくしま未来博会場へ向かうものばかりのようで、中心市街地は空洞化も進んでいるようです。